いわみ(@iwamishinji)です。
「感情を自分の言葉で語れない人」という記事がとても考えさせられる内容でした。
ご友人が亡くなられたとき、SNSに判で押したようなコメントばかりが寄せられて「人々の感情が劣化してきている」と感じた、という短いコラムです。
もくじ
自分にも思い当たること
感情を言葉にして表現するのが苦手なところがあります。
それ以前に「自分がどう感じているのか」がわからなかったり。
歳を重ねるごとに、そういう傾向が顕著になった気がしています。
このコラムに書かれているのと似たような感覚をぼくもずっと感じていて、気持ちを代弁してもらったような気になりました。
感情の劣化とは
「感情の劣化」について。
現代人は気持ちを表現する場面が減り、自分の「かすかな心の揺れ」を無視してしまいがちだと思います。
自分がいま喜んでいるのか、それとも怒っているのか、または悲しんでいるのか。
それさえ分からない。
何も感じていないのは「感情にフタをしている」状態かもしれません。
本当は何か感じているはずなのに、それが自分で分からない。
年齢を重ねると強まる傾向があるかもしれない。
フタをし続けて何を感じているかわからなくなり、例えば美しい景色を目にしたとしても、「感情を表すコトバが自分の中に見つからない」状態に陥ります。
そうすると会話をするにも文章を書くにも困ってしまう。
そういう人はけっこう多い気がします。
感情そのものが鈍化している
文章を書こうとしても言葉が出てこないのは、語彙が足りないせいだと思い込んでいました。
でも違いました。
原因は「語彙の少なさ」ではなかったのです。
感情そのものが鈍くなっているから、自分がいま何を感じているのか自分でわからない。
もし語彙が原因なら、適切なコトバが見つからないことにイラつきながら、でも何とか感じていることを表現して人に伝えようとするはずです。
でも最近では、伝えようとさえしない人が多いように思えます。ぼくも含めて。
語彙が足りないから感情が表現できないのではなく、「感情そのものが劣化してきている」と感じるのです。
心が古くなった餅みたいにカチカチになってきているんじゃないでしょうか?
空気の抜けたボールのように弾力がなくなって、押しても戻ってこなくなってきているんじゃないでしょうか?
なぜ感情が劣化してきているのか?
もし本当に「人々の感情が劣化してきている」のだとしたら、理由はなんでしょう?
ネットばかりみているから? 生活が便利になりすぎたから?
それもあるでしょう。
でもいちばん大きな要因は、静かに考える時間を失っているからだと思います。
SNSの世界に没入していると、1人でいても孤独ではない感覚を得ることができるのは素晴らしいことです。
でも人が自分の感情を育てるのは「本当にひとりの時間」ではないでしょうか。
物理的にも精神的にも1人の状態で、自分と向き合って内面を見つめたり過去を検証したりする。
そのときに語彙は邪魔にさえなります。見知らぬ他人の言葉で埋め尽くされたされたネットの画面も同じです。
本を読むだけでは感情は豊かにならない
「本を読めば感情豊かな人間になる」といいます。たくさんの美しいコトバにふれると、読む人の心を磨いてくれると。
間違いではないと思うのですが、それなら現代の人は本さえ読めば豊かな感情を持つことができるようになるんでしょうか?
ぼくはならないと思います。
たぶん読書より大事なことがあります。
感情を育てるのに必要なこと
静かな時間です。
自分の心だけに向き合える時間。「自分の時間」とは違います。
何もしない時間。1人きりである必要はありません。
「暇」と言い換えてもいいかもしれません。
「静かな時間」が、現代人には圧倒的に足りていない。
昔は貧しくても(むしろ貧しいほど)暇がありました。
今は逆です。貧しい人には暇がないのです。
何もすることがない「静かな時間」を手に入れることが何より難しくなっています。暇な時間は「ぜいたく品」なのです。
まとめ
- 年齢を重ねると自分の心のかすかな動きに無頓着になってくる
- そうすると感情を表現できなくなる
- 原因は語彙じゃなくて感情の劣化だった
- 大きな原因はスキマ時間がなくなったこと
- 「本当にひとりの時間」が感情を育てる
- 読書だけでは心は豊かにならない
- 昔の人には静かな時間がたくさんあったが今はない
- 現代では貧しい人ほど時間がない
日常生活の時間を少しだけでも「静かな時間」にすることはできないのでしょうか?
くしゃくしゃに丸めた紙をのばしてきれいな部分をとっておくみたいに。
できなくはなさそうです。もう少しぼくなりに考えてみようと思います。
終わります。